ニーチェと悪循環

人間たちは芸術を破壊したという有罪性を引き受けなければならないはずだ。p36 そもそも芸術とは隷属的意識が自律的意識に変貌したことの証拠ではなかったか。p41 文化との闘い.

「人間たちに彼らの自然の衝動の持つ勇気を返してやれ。彼らの自己の過小評価を抑えてやれ。(個人としての人間の自己過小評価ではなく、自然としての人間のそれ・・・)。p42 文化との闘い.

記号の不変性なかで、自我は眠る。そして力は、それが沈黙の度を深めるだけ、それだけますます強く覚醒する。記憶はついに頭脳的な自我から身を解き放ち、もっともかけ離れたモチーフに従ってしかもはや自分を示さないようになる。 欲動の記号.病的諸状態.

内的世界を空にせよ!そこにはいまだに多くの偽りの存在がある! だからわたしはかつてこう言った。感覚(サンス)と精神は道具であり玩具である、その背後にはまだ「自己」がある、と。

生命は一つの幻想(みずからの「必然性」)に依拠しているーそこから次のような警句が発せられるのだ。真理とは、それなしではある種の生けるものが存続できないであろうような、一つの錯誤である。 欲動の記号論.p99

現在われわれがそうであるものとは違ったものー違ってはいるが、他の場所にあるのではなく、常にこの同じ生のなかにあるーそのものの忘却のうえに<悪循環>の記号を打ち立てていた。

「生それ自体がこの〔<永劫回帰>の〕荘重なる思考を生み出した。生はいまやみずからの最後の障害を無視して進まんとする」。

脱線、忘却。<永劫回帰>がわたしに啓示された瞬間に、わたしはいまここにあるわたし自身であることをやめ、無数の他のわたしになることができるようになる。

わたしはその啓示を忘却するだろうということを知りながら。この忘却がわたしの現在の意志の対象である。略、そしてわたしの現在の意識が確立されるには、わたしに可能な他の諸々の同一性を忘却することが必要であろうから。必然的な円環運動である。p123

もう一度!すべては無駄(プール・リヤン)なのだろうか。そう、わたし自身に関しては無とはここでは一度限り決定的な<円環>のことなのだ。つまり、世界にかつて起こったこと、いま起こっていること、これから起こるであろうこと、そのすべてに当てはまるひとつの記号のことなのだ。p124

現在ふたたび意志されなければならないものを忘却することなしに、いかにして意志は介入しうるだろうか、、、

ニーチェ、この人を見よ

はっきり言っておくが、「真の世界」と呼ばれて来たものが虚構された世界なのであり、「仮象の世界」と言われて来たものが、現実の世界なのだ。理想という嘘がこれまで現実の世界の上に蔽いかぶさっていた呪いであった。 この人p5

病者の光学から一段と健康な概念と価値を見渡し、また、これとは反対に豊富な生の充実と自信とからデカダンス本能の秘かな営みを見下すということ ー これが私の最も歳月をかけた修行であり、私のほんとうの経験であって、もし私が何らかの点で達人になったのだとすれば、それはこの点においてであった。p18沈黙している手合いは、ほとんどいつも心情の細やかさ礼節を欠いているのだ。沈黙しているということは、相手に対し文句をつけていることと同じである。言葉を呑み込んでしまうのは、必然的に良くない性格を作る。沈黙家はみな消化不良にかかっている。 すれっからしの人間と豊かな人間、末期の人間と偉大な人間とを混同している現代「文化」の虚偽、その本能的雑種性に私は攻撃を加えたのだ。

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