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    『全体性と無限――外部性についての試論』(ポリロゴス叢書) 

すでにいないはずの人が、脳死の身体のただ中にいまありありと現われているとき、そこに到来しているものこそが「他者」である。
 「他者」という概念は、現代哲学のなかで様々に用いられてきたが、そのなかでも、生命論の視点からもっとも注目すべきは、エマニュエル・レヴィナスの他者概念であろう。レヴィナスは、「私」の対概念として「他者」を捉えることを拒否する。「私と他者」という図式によって、私が知的にとらえることのできるものは、すでに「他者」ではない。「他者」を他者たらしめているのは、その「他者性」であり、「他者性」とは、それを掴み取ろうとするわれわれの知の包囲を、どこまでもすり抜けていくところに存するからである。「私がもはや〈他者〉に対して何もなしえないのは、〈他者〉について私の抱きうる一切の観念から〈他者〉が絶対的にはみ出すからである(76)」。
 レヴィナスは、「他なるもの」と「他者」を完全に区別する。「他なるもの」は、私がそれを享受し、私の中へと取り込むことによって、私と統合される。だが、「他者」は絶対に私には統合され得ない。「他者」とは、私の意向とは無関係に、私の世界の外部から、一方的に私に向かって「到来する」何ものかである。それは、私という「自己の優位性を根源的な仕方で脅かす」何ものかである(77)。到来する他者こそが、私に倫理の次元を開示する。「他者」とは外部であり、絶対者のあらわれであり、無限であり、真の異邦人である。その無限の到来は、現われるはずのないものが、私の前に現われるという形式を取るのであり、その形式は「痕跡」と呼ばれる。
 脳死の身体のただ中に、他者が到来する。このとき、他者は、「すでにいないはずのひとが、脳死の身体のただ中にいまありありと現われている」という形をとって到来する。そしてこの到来の形のことを私は「現前」と呼んだ。「現前」とは、この世界が合理的に構成されているはずだと考えたいわれわれの知の欲望を裏切って、世界の裂け目から到来する他者の、その到来の形式のことである。私は「現前」と「他者」の関係を、このようなものとして把握したい。

http://www.arsvi.com/b1900/6100le.htm